チャオプラヤー川の詐欺師


 タイに来て一週間ほど過ぎました。
 少しは土地勘もついてきて自分でもちょっとは慣れてきたなあと思っていた頃です。2日後の6月30日にベトナム行きの飛行機を手配していたのですが、そ れまでは特別にやる事もなくぶらぶらしていました。
 28日の昼過ぎに、ウィークエンドマーケットに行こうと思ってバス停に向けて歩いている時の事です。
 前を中年のおばさんと若い息子らしい二人連れが歩いていたので追い越したのですが、息子みたいなのがタイ語?で後ろから声をかけてきました。何か質問し ているようですが、当然何を言っているのかさっぱりわかりません。
 私はカタコトの英語でタイ語はわからないと言ったら、なんかごちゃごちゃ言って英語で 「Are you Japanese?」と聞いてきました。
そうだと答えると「オーッツ タイジンカトオモッタヨー」と言うのです。
 改めて見れば中年のおばさんはちょっと太めで身なりのよさそうな格好をして高そうなハンドバッグを持っています。
 息子らしい方は痩せた感じで20代の前半かひょっとしたらまだ10代後半かもしれません。
 黒いズボンに白いシャツというシンプルですが清潔な格好をしていて、人の良さそうな顔立ちをしています。
 日本語はほんの少ししか喋れないらしく、簡単な英語で話したのですがどこに行くのかというので「ウィークエンドマーケット」に行くんだと言ったら、「な んだ、そうなのか、俺たちも行くんだよ」と言うのです。
 おお、さすがにウィークエンドマーケットは人気のようです。
 続けてどうやって行くんだというのでバスで行くと答えました。
 私はサイアムスクウェアまでバスで行ってそこからスカイトレイン(BTS)でウィークエンドマーケットに行こうと思っていたのです。
 ですが、人の良さそうな息子は親切にもこの時間は渋滞だから船で行った方がいいよ、自分達は船で行くんだと言うのです。確かにまだ昼の1時過ぎですが、 バンコクはいつでも渋滞だし、そういえば船でチャオプラヤー川をさかのぼっても行けるような事をガイドブックで読んだような気もします。
 これは思いがけず、地元民しか知らない裏技なのかもしれません。
 でも、船なんかどこでどうやって乗るのかわからないです。
 もし、よかったら一緒に連れて行ってくれないかな。
 そう考えていたら、向こうの方からよかったら一緒に行かないかと言ってくれました。なんと願っても無い事です。
 じゃあお願いします。
 そう答えると善は急げとばかりに息子がトゥクトゥクを止めて3人で乗り込みました。トゥクトゥクには乗った事が無いし、トラブるといやなので乗らないよ うにしようと思っていたのですが、現地の人と一緒だったらボラれる心配も無いでしょう。
 私達を乗せたトゥクトゥクはほんのちょっと走っただけで、すぐ止まりました。
 目の前に結構大きな川が流れています。これがチャオプラヤー川でしょう。向う岸まで300m以上はあるかもしれません。
 それほど大きい船はいませんでしたが、いろんな船が行き交っています。
 近くだというのは知っていましたが、こんなに近いとは思ってもいませんでした。
 トゥクトゥクから降りて船着場まで歩く途中で、母親とも話しました。
 母親は日本語は全く出来ないみたいで英語ですが、日本人は好きだとか、妹が日本に行きたいと言っているとか何だとか言っていました。まあ、悪い気はしま せん。
 それに私はタイに来て、初めて買い物や注文以外でタイ人と普通の会話をしているという新鮮な経験に嬉しくなっていました。
 船着場に着くと、最初に水上マーケットに行ってそれからウィークエンドマーケットに行くけどいいか、と息子が聞いてきました。
 水上マーケットは朝だけだと聞いたような気がするのですが、地元のタイ人しか知らない場所があるのかもしれません。どっちにしろ機会があったら水上マー ケットには是非とも行ってみたいと思っていた所です。
「OK、OK」と答えていると、すぐに10mぐらいのエンジン付きのボートが止まりました。乗るのは私達3人だけです。おいおい貸切かよ。この人達って金 持ちなのかな?
 などと考える間もなく船頭に何やら息子が言うとボートは出発しました。
 私と息子が隣同士。母親がその前。一番後ろに船頭です。
 このボートはエンジンと直結したスクリューを水に突っ込んで、それで進むようになっているみたいでした。方向もスクリューの向きで変えるのでしょう。
 ボートは泥水のようなチャオプラヤー川の水面を切り裂いてぐんぐん走っていくのですが、結構スピードが出ます。時々水飛沫が跳ねるのが汚いですが、風は とても気持ちいいです。
 しばらく走ってボートが支流らしき少し小さい川に入りました。といっても川幅は数十メートルはあるでしょう。
 右の川岸に倉庫のようなものがあって、立派な金色の装飾をしてある船が格納されていました。なんかの儀式にでも使うような豪華な船です。
 「オウサマノフネ」
 息子が説明してくれました。
 それから川沿いに寺が見えると、きちんと両手を合わせて拝むのです。
 おお、さすがにタイ人は信心深いものだと感心しました。
 それから寺をワットナントカと説明してくれたので、「ワットナントカ」と鸚鵡返しに言ったら、くすっと笑われました。
 息子によると、日本人は皆「ワット」と発音するけど、「ワッ」と言って「ト」はあんまり発音しないのが正しい発音なのだそうです。
 う〜ん、勉強になります。

 「キィタァ〜ノォ〜、サカバドオリニハァ〜」
 突然、息子が日本語で「北酒場」を歌いだしました。
 なかなか上手いものです。
 私もまさかこんな所で日本の歌を聞くとは思わなかったので、思わず笑ってしまいました。
 それからカタコトの英語と日本語で会話した所によると、なんでも彼のお父さんが千葉に住んでいて、子供の頃から日本人の友達をよく連れてきていたそうで す。
 あと喋れる言葉はタイ語と英語と中国語、日本語が少しと言っていました。日本語は早稲田大学の友達から習ったそうです。チュウゴクゴガイチバンウマイネ と言っていたので、中国系のタイ人なのかもしれません。
 そのうち、船は更に細い支流に入っていきました。
 ちゃんと交通の手段として使われているらしく、いろんな船と行き交います。
 他の船に売るのだと思いますが、七輪の上に金網を載せて肉を焼いている船もありました。
 しばらく進んだと思ったらボートが岸によっていきます。
 あれ、ここで降りるのかなと思ったのですが、水面から上がっている石段に寄せるだけで、母親も息子も降りようとする気配はありません。
 石段の上は商店みたいでした。
 ふと見ると、すぐ傍の水面下には30cmぐらいもある魚が十匹以上うようよしているのが見えます。
 そのうち子供が降りてきました。どうやらここで飲み物か何かを買うようです。
 息子がビールを飲むというので私もビールを頼みました。
 シンハーの中瓶だったと思いますが、100バーツです。ちょっと高いなと思ったのですが、観光地で物が高いのは日本もタイも一緒だから仕方が無いでしょ う。
 サービスなのか、子供がパンの塊も一緒に持ってきました。食うのかなと思っていたら、息子はナマズがいる辺りにパンをちぎって投げています。私も真似し て投げたら、ばしゃばしゃと凄い勢いでナマズが跳ねて餌の取り合いをしていました。
 ああ〜楽しいなあ。
 私はそう思っていました。

 そうだ。せっかくだから写真を撮っておこう。
 船が再び出発して私がデジカメを取り出そうとすると、何故か息子が「ダメシャシンハダメ」と顔を背けながら言うのです。
 この川は撮影禁止なのでしょうか。それにしても何故?
 私がそう思っていると、「ホラ、アッチOK」と景色は撮ってもいいというのです。
 何らかの事情で写真を撮られたくないようです。
 それにしても何故でしょう。
 いくらタイ人だからと言って写真を撮ると魂を抜かれるとか幕末の日本みたいな事を考えている訳ではないでしょう。ひょっとすると、彼らはどこかの有名人 だか金持ちだかで写真を撮られると困るのかもしれません。私は酔っ払った頭でそう考えました。
 まあ、とりあえずダメだと言っているのだから何だか知らないが事情があるのだろう。 私はそう思って何枚か写真を撮りました。

 その後もボートはぐんぐん進みます。
 子供が泳いでいたり、橋の下をくぐったり、同じような船に乗っている白人観光客ともすれ違いました。
 川の両岸には、おんぼろな家が多く、中には壊れそうな家もありました。
 どっちにしても普通にガイドブックを読んでいただけではこの船に乗ってこういう経験をする事は無かったでしょう。
 本当にこの人達と知り合いになれてよかったなあ。
 私はそう思っていました。

 最初にボートに乗ってから一時間ぐらいは経ったでしょうか。
 ふと気づくと船は大きな川に出てきました。
 どうも見覚えのある大きい橋なんかもあるので、出発点に戻ってきたようです。
 水上マーケットは無かったけど、ひょっとしてさっきのビールを買ったのが水上マーケットだったのか? いや、カタコトの英語だったから俺が聞き間違えた のかもしれない。
 そう考えていると、母親と息子が二人でタイ語?でごちゃごちゃ言って財布を取り出しています。船頭に料金を払うのでしょう。
 私も払わなければと思って、これだけは覚えたタイ語で声をかけました。

 「タウライ、カップ?(いくらですか?)」
 「four thousand and five hundred baht」
 平然としかいいようのない普通極まりない態度と口調で息子が言いました。

 私は一瞬自分の耳を疑いました。4500バーツ?
 4500×3=13500円。
 13500円!
 そんなに高いのか!

 「フォーサウザンド ファイブハンドレッド バーツ???」
 「Yes.」

 心の奥底でほんの少しだけボッタクリだ! そんなに高い訳がない! という考えが閃いたのですが、母親と息子は当たり前のように平然としています。
 あまりにも普通のその態度の前に、私の心の声は奥底深く封じ込められてしまいそうになりました。
 私は半ば思考停止しつつも、心の一部がおかしいと思叫び続けました。
 でも、どう考えても、いままで仲良く楽しく話をしてきた二人が私を騙すとは思えません。
 考えてみれば日本でも観光地でボートを一艘一時間貸し切ればそのぐらいかかっても不思議ではありません。
 この親子に取っては船を4500バーツで1時間借り切るのはごく普通の事なのかも知れません。第一に、最初に料金の確認をしなかった私も悪いのです。
 私は自分を半ば無理矢理に納得させました。
 それが完全に私が落ちた瞬間でした。

 私は思考停止した頭でのろのろとデジカメのケースの中に隠していた1000バーツ紙幣を取り出しました。用心のために財布にはあまり金を入れないように していたのですが、万が一に備えて隠し持っていたのです。
 丁度持っていたのは5枚だったと思います。
 それを息子に渡すと、500バーツのお釣りをくれました。
 私が渡したお金は母親から船頭に渡して何やらお金をやりとりしているようでした。
 ボートはゆっくりと船着場に近づいていきます。
 ボッタクリだ! 騙されたんだ!
 心の奥底で再びそういう声が持ち上がろうとしています。
 ですが、もう金を支払ってしまった後でたどたどしい英語で何と言えばいいのでしょうか。
 おまけに私の日本人的な思考では、金の件で不当な事をがたがた主張するのは非常に恥ずかしいとどうしても考えてしまいます。
 例えば、最初から500バーツだといわれて4500バーツ払えと言われたのだったら、私だって約束が違うと文句を言ったでしょう。
 ですが、もうお金は払ってしまった後です。
 何度も繰り返しますが、事前に確認しなかった私が悪いのです。
 私は何度も自分にそう言い聞かせて心の声を押し殺そうと努めました。
 そうこうするうちにボートは一時間程前に出発した船着場に着いてしまいました。

 ボートから降りると息子は全く変わらない愛想の良さで、これからタクシーでウィークエンドマーケットに行こうと言いました。
 私は普通に料金を払っただけなのか。騙されてボッタくられたのか。
 この母親と息子は善人なのか。私をカモにした詐欺師なのか。
 何が何だか全くわかりませんでした。
 私の頭の中ではいろんな考えがせめぎあいぐるぐる回っていました。
 でも、前を歩いている二人は平然としかいいようのないように普通です。
 私は結果的に思考停止に近い状態でした。
 それでもただ一つだけわかっている事があります。

 それは絶対にこの二人について行ってはいけないという事です。

 この二人がボッタくり野郎でも、ただの金持ちのタイ人にせよ、少なくとも金銭的な面では絶対にろくな目には合わないという事だけは厳然たる事実として私 にはわかりました。
「ノー、アイハブノーマネー」私は答えました(実際に所持金は1000バーツ以下でした)。
 何故? 母親と息子でしきりに聞いてきます。
「アイハブノーマネー、アンド、アイムタイアード アイウォントトゥゴウホテル」
 二人はしきりに私を誘いました。銀行に寄ってから行こうとか言われましたが断りました。
 タクシーを止めて二人とも乗り込んでからも、すぐに発車せずにしばらく私に一緒に行こうと呼びかけていました。
 私はこの期に及んでも、まだ思考が止まっていたようです。
 二人の事をやっぱり善意のタイ人だったかもしれないとも思っていました。
 金持ちだから金銭感覚が違っているのかもしれないとも思っていました。
 ただ、矛盾するようですが、絶対に着いて行かない方がいいとも思っていました。
 私は愚かにもこの期に及んで言っていました。
「サンキュー、グッバイ」
 やっと諦めたらしく二人の乗ったタクシーはドアを閉めて走り去りました。
 何もかもが面倒くさく感じられ、どうでもいい感じで、とても疲れていました。
 自分が愚かで無力で疲れきった老人になってしまったような気がしていました。
 ふぅ、私は大きな溜息を漏らしました。

 こうして私は4500バーツ騙し取られたのです。


この時撮った写真はタイベトナム写真日記のカオサンと詐欺師にあります。


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